徳藏院

真言宗豊山派日暮山医王寺徳藏院のサイト

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■白髭神社

 また日暮村には、白髭稲荷神社もありました。
いまの白髭神社です。白髭稲荷はそもそもは、平安中期の昔に平将門がこの地方で多くの人を殺害したため、その霊をなぐさめるために建てた塚といわれています。

 神社の背後の山が寺山と呼びならわされているところから、神仏混淆の時代には徳蔵院と特別な関わりがあったことが容易に推測されます。

■小金城落城

 天正十八年(1590)五月、小金城は豊臣家五奉行の一人として名高い浅野長政の手兵に攻められ、あえなく落城しました。
ここに初代・高城胤忠から五代・高城胤重へとつづいた高城氏が悲運のみちをたどることになったのです。

 高城氏は没落と同時に、かっては小金領と二合半領(埼玉県三郷市)、相模国小菌(神奈川県綾瀬市)、飯島(横浜市戸塚区)などにあった所領地を失いました。

 一方この間に小田原の後北条氏も、氏綱から氏康に、氏康から四代・氏政に代わりました。

■小田原城攻略

 そして小金城が落城した同じ年の天正十八年(1590)に、有名な豊臣秀吉の小田原城攻略に遭遇します。
この秀吉の小田原攻めには、徳川家康もその軍勢とともに加わっていました。

 結局、小田原城は落城してしまいます。氏政と弟の氏照は自刃して果てました。氏政の子であり五代の氏直ひとりが、家康の娘・督姫を娶っていた因縁から、かろうじて助命されたにすぎません。ここに後北条氏もあえなく滅亡しました。

 そして家康が関東八州の新領主として、江戸に入部したのです。
高城氏の旧家臣たちは、このとき帰農し郷士となったと伝えられています。

 翌天正十九年(1591)、家康は関東一円の古社旧寺に対して、朱印状をくだしました。

■関ヶ原の戦い

 慶長三年(1598)に秀吉が歿すると、天下の声望は五大老のひとりであった家康に集まり、次第に実権を握るようになりました。
五奉行のひとりである石田三成が家康を除こうとして諸将と策し、やがて関ヶ原の戦いへと発展してゆきます。

 関ヶ原の合戦は、俗に「天下分け目の戦い」といい、家康軍が大勝しました。天下の大勢はここに決したわけです。

■江戸幕府誕生

慶長八年(1603)、家康は征夷大将軍に任じて、江戸に江戸城をひらきました。
以来、慶応四年(1868)の明治新政府樹立までを江戸時代といいますが、家康が江戸に入府した天正十八年(1590)を起点にかぞえおこす史家もいます。

 この以前、家康は第五子の武田信吉に、小金領百四十九ヶ村、三万石余の支配をまかせました。信吉は当時たったの八歳です。
当然、実権は母の於都摩の方や兄たちの秋山昌秀、山本正成ら旗本が握りました。
しかし於都摩の方が早逝すると信吉は佐倉に去り、小金領は兄たち旗本の采地となりました。
それも長くつづかず、やがて天領(幕府領)になっています。日暮村一帯も同様でした。

■諸宗諸本山諸法度

 元和元年(1615)、大坂夏の陣も終わり、家康が名実ともに天下を掌中におさめました。
同時に幕府は、諸大名の領国に一国一城の制を布くとともに、さらに諸宗を統制する目的をもって「諸宗諸本山諸法度」を定めました。
つまり幕府が各本山を把握することによって、全国諸寺院ならびに檀信徒の実態をつかもうとしたのです。

 つづく寛永八年(1631)には、幕府は諸本山に命じて末寺帳を提出させました。しかしそれが不徹底だったのでしょう。
二年後の寛永十年(1633)にも、再び末寺帳の提出を命じています。
これらによって幕府が宗教統制にいかに苦慮していたかがわかります。

 寛永十七年(1640)になると、幕府はキリスト教を禁圧するために宗門改役を置き、宗門改人別帳を作成することにしました。

徳藏院関係文章

『徳蔵院関係文章』(国分寺所蔵)

■徳蔵院での十九夜講

 一方、この時期の庶民のあいだには、素朴な念仏講が盛んでした。
十九夜講もそのひとつです。十九日の夜、寺院や堂に婦人たちが集まって、御詠歌や真言を唱える信仰がそれでした。

 徳蔵院においても十九夜講が盛んに営まれ、延宝七年(1679)四月と貞享二年(1685)二月には境内に舟型浮彫如意輪観音の十九夜塔がつぎつぎと造立されています。

太鼓の写真

■薬師如来の八日講

 また、薬師如来の縁日である八日に行われる「八日講」も盛んでした。
徳蔵院はもともと薬師の寺として信仰されてきました。

 昭和五十年頃まで徳蔵院を中心として残っていた「八日講」は、薬師の縁日である八日に講がもたれ、信仰されてきたものです。
その折りに使用された鉦や太鼓は、現在も徳蔵院に大切に保管されています。

古い寺院の写真

■元禄時代

 元禄元年(1688)四月、幕府はまたまた統制策を打ち出しました。
それは寛永八年(1631)以前に建立された寺院を「古跡寺院」に、それ以降に建立された寺院を「新地寺院」に区別することでした。区別しただけではありません。新地寺院は例え火災によって焼失しても、再建立は一切認めないと言う厳しい内容のものでした。
寺院がもつ力と信仰にまつわる力が拡大されてゆくのをおそれたからに他なりません。

 さらに元禄五年(1692)には、潰寺の再興や草庵を寺院とすることも禁止しました。寺院の建立を極端に制限しようとしたためです。
当山は古跡寺院でしたが、いくたびも火災によって焼失していた徳蔵院は、一体どのように対処していたのでしょうか?
たぶん徳蔵院では、仮に無住の時期があっても、古寺としての来歴や檀信徒の多大な志向によって、法灯が守りつづけられていたのでしょう。

■元禄年中

 江戸時代もこの元禄年中(1688~1703)に入ると、庶民の生活も一応安定し、物見遊山を兼ねた寺社詣でが盛んになりました。
とくに大山詣でが人気でした。

 徳蔵院に十九夜講中によって手洗石が寄進されたのも、元禄十四年(1701)十一月のことです。

小さい寿老人像の写真

■家康公と七福神

 徳川時代初期に江戸で七福神詣でが盛んになりだしました。
家康が相談役の天海僧正にこれからの行政の方策を相談したところ、七福神信仰の七つの徳を話され、家康はそれを採用したことで、江戸庶民におめでたい縁起ものとして喜ばれ、お正月の風物詩として親しまれるようになりました。

 天海僧正の出自については定かでないところがあり、もしかするとこれだけの人は家康が「山崎の合戦」でやぶれた明智光秀を匿っていたのではないかといわれています。

■享保の改革

 享保元年(1716)に将軍位を継いだ八代将軍・徳川吉宗の時代には、全国的な大飢饉が起こり、各地で百姓一揆が続発しました。

 この頃、幕府の財政も極度に悪化しています。それがために幕府は、寺院や一般市民に対しても、厳しく冗費の節約を要求しました。
享保九年(1724)には毎年諸寺院から提出させていた宗門改人別帳を六年ごとに作成することにし、また高さ三尺(約90センチ)以上の仏像の造立を制限する挙にでました。

 このような圧迫を加えるかたわらで幕府は、地方の実情の調査に余念がありませんでした。そのひとつが将軍の鹿狩り、鷹狩りと称す野外の行事でした。

 これらの行事は決して単なる遊興ではなく、農耕害獣の捕殺や新田開発の促進、古社寺への監視など、さまざまな重要目的をひめていました。
遊興にみせかけた視察がこれです。とくに吉宗は、たびたび大がかりな鹿狩りを催しました。

徳藏院の風景写真

■小金牧と佐倉牧

 かつて下総には、小金牧と佐倉牧がありました。
牧は牛や馬、羊を放し飼いする土地のことです。
当然、鹿や猪、鷹もいました。

 この牧も享保の改革にあわせて、小金牧のうちの庄内牧が中野牧、下野牧に改められました。
つまり新田開発をともなう大拡張が加えられたのです。
そのとき開拓されたのが、現在の八柱霊園の地にあたる田中新田や陸上自衛隊松戸駐屯地付近の串崎新田でした。
徳蔵院のすぐ南の地域といっていいでしょう。

■八代将軍吉宗・中野牧で鹿狩り

 享保十年(1725)三月、吉宗は中野牧を中心にして、大規模な鹿狩りを催しました。
翌享保十一年(1726)にも同所において鷹狩りという名目の視察を行っています。

 この二回の野遊に動員された百姓勢子は、下総と武蔵二ヶ国五郡四百八十三ヶ村から、三万人を超えたといわれます。
そして獲物は、鹿千三百余頭、猪十七頭、狼二頭などがありました。
徳蔵院のごく近くでこれだけ大きな行事が行われたのですから、その賑わいは筆舌に尽くせぬものがあったでしょう。徳蔵院では秀応法印の時代のことです。

 享保十五年(1730)八月二十九日、その秀応法印が入寂しました。法印は徳蔵院の境内に金比羅宮を勧請したという言い伝えがありますが、建物そのものは太平洋戦争中の爆撃で破壊され、跡かたもなくなったということです。

■弘法大師九百年御遠忌

 享保十九年(1734)三月二十一日、弘法大師九百年御遠忌をむかえました。

 江戸府内外に起こった事柄を年表体に著した史籍「武江年表」によれば、真言宗の諸寺院はこぞって盛大な法筵を設けたと伝えています。

■弘法大師八十八ヶ所霊場巡拝

 『東都歳時記』の三月十日の条に「二十一日迄四国八十八ヶ所の写弘法大師巡拝」と記されています。

■後府内八十八ヶ所

 江戸府内に四国八十八ヶ所の写しができたのは宝暦年間(1751~63)で、浅間山の生等上人の本願によって、四国霊場を模して創したものといいます。

 江戸城を中心に八十八の札所をめぐる巡礼路です。その頃の江戸の人びとが、弘法大師ゆかりの四国霊場の巡拝をするのはきわめて困難であったため、江戸にそれに代わるべきものを設けたのがその始まりのようです。
四国は全長千四百キロ、江戸は約百八十八キロの道のり、本家四国八十八ケ所のミニチュア版が江戸時代に作られていました。

 先達とよばれる人に伴われて、大師講の手ぬぐい、輪袈裟などをかけ、手甲脚絆姿の人びとは、鈴を鳴らし「南無大師遍照金剛」と唱え、堂前ではご詠歌を唱えました。
交通の便の不自由な昔、一夜毎に帰宅すれば六、七日はかかったことと思われますが、これは当時の人びとの数少ないレクリエーションのひとつだったといえましょう。

 その後、全国各地に八十八ヶ所巡拝路が設けられ、一時的に参詣が中断されたこともありましたが、現在の盛況に至っています。

弘法大師像の写真

■新四国八十八ヶ所霊場巡拝

この巡拝路は「下総国相馬、印旛、千葉、葛飾の四郡」の八十八ヶ寺及び一社をめぐるもので、現在の千葉県八千代市、白井町、柏市、沼南町、船橋市、習志野市、市川市、松戸市地区にあたります。

 この札所の構成は真言宗寺院に限ることなく他宗にも及んでいるのが特徴です。
これは限られた地域内では八十八ヶ所すべてをおぎなうことがむずかしかったからといえるでしょう。
徳蔵院は第四十七番札所になっています。

■古木を使って再建にとりくむ徳蔵院

 その後徳蔵院では、良孝法印、宥淳法印、降舜法印、亮弁法印、宥盛法印が住職をつとめました。
宥盛法印の代のときに、徳蔵院の伽藍や門が大破し、それを修復普請したようです。徳蔵院が道心庵とよぶ塔頭を有していたのもこの頃のことかもしれません。

 翌文化九年(1812)十一月四日、関東地方に大きな地震が発生しました。
とくに神奈川地方での被害が甚大でしたが、下総でも少なからぬ余波をこうむりました。
つづく文政年中(1818~29)にも天変地異の現象が頻発して、寺院も庶民も困窮を強いられました。この異常現象は天保三年(1832)から始まる天保の大飢饉にまでつながってゆきます。

 徳蔵院では、嘉永五年(1852)十一月二十八日の明け方に、燈明の火から出火するという出来事がありました。
栄清法印の時代のことです。しかしつぎの浄空法印が村役人をうごかし、かれた古木をつかって再建にとりかかっています。
徳蔵院が庶民の子弟に読み書きを教える寺小屋であったのも、この時期のことかと思われます。

 そこへ安政の大地震が起こりました。
この地震は、安政二年(1855)十月二日に発生しています。関東一円は揺れに揺れつづけました。
当然、おおくの寺社が壊滅的な打撃をうけました。せっかく再建されたばかりの徳蔵院も、例外ではありませんでした。

■徳川慶喜大政奉還

 安政の地震から十二年後、すなわち慶応三年(1867)十月十四日、十五代将軍・徳川慶喜が大政を奉還し、翌慶応四年(1868)には明治新政府が樹立しました。江戸も東京という呼び名にかわりました。

 この年の三月、明治新政府は神仏分離令を発令しました。
とたん全国津々浦々にまで廃仏毀釈運動がひろまり、多くの寺院が廃寺もしくは無住寺となる運命に見舞われました。
多くの仏像、仏具も破壊されています。

 徳蔵院も白髭神社の別当職を解かれ、除地だった境内地はすべて官有地として没収されました。
徳蔵院では、大純法印につづく永豊法印が住職の時期でした。

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