真言宗豊山派日暮山医王寺徳藏院のサイト
徳蔵院は同じ下総国(千葉県)の国分山国分寺(市川市)の隠居寺として建てられた。または、国分寺の子院として建てられた後に日暮村へ移転されたとの説があります。
徳蔵院を開いた深慶という僧については、生国が下野国(栃木県)、仮名が尊養、応仁二年(1468)に示寂したこと以外は詳しく記録に残っておりません。
長い歴史の中で徳蔵院は再三の火災に見舞われ、古記録のほとんどを焼失してしまったのです。
徳蔵院が創建された後花園天皇の時代は、京都の室町幕府・鎌倉の公方・関東管領の上杉氏が互いにせめぎあい、関東一円に戦火が絶えませんでした。この時代は寺社を拠点に争乱が繰り広げられていましたので、寺社の建物は格好の攻撃目標でした。
下総の国分寺も例外ではなく、避難用の隠居所としての草庵が必要だったのです。徳蔵院はそういった時代背景の中で創建されたのではないかと推測されます。
この当時の日暮村は、草深く小高い台地の起伏した僻遠地でした。このような地形は、要害としての条件を満たすには絶好の地形です。これが徳蔵院創建地に日暮村を選んだ最大の理由といえるでしょう。
事実、のちには徳蔵院北方の栗ヶ沢に城が築かれ、さらに大谷口にこの地方の要衝として小金城(大谷口城)が建造されています。
徳蔵院の宗旨は真言宗豊山派です。真言宗はインドに興った仏教が唐(中国)に伝わり、金剛智三蔵(こんごうちさんぞう)という僧の弟子・不空三蔵(ふくうさんぞう)に至って大成した仏教宗派のひとつです。その教えを延暦二十三年(804)に唐に渡った弘法大師空海が、不空の弟子・恵果阿闍梨(けいかあじゃり)に師事して会得し、日本に持ち帰りました。
帰朝後、弘法大師は東寺や金剛峯寺(こんごうぶじ)(高野山)においてそれを広く弘通しています。いわゆる真言密教が華やかに花開いたのでした。
第一祖 竜猛菩薩 | 第二祖 竜智菩薩 | 第三祖 金剛智三蔵 | 第四祖 不空三蔵 |
第五祖 善無畏三蔵 | 第六祖 一行阿闍梨 | 第七祖 恵果阿闍梨 | 第八祖 弘法大師 |
真言宗の教えが、いつの頃から関東に普及したのかは明らかではありません。
一説によると、第五十代の帝・桓武天皇が京都に平安京をつくってから鎌倉幕府が成立するまでの、いわゆる平安時代約四百年の間に、伊豆に流されていた僧徒たちの力によって、関東に真言の法流が浸み込んでいったといわれています。その基盤のうえに、鎌倉期(1180~)に入って急速な発展をみせました。
伊豆に流謫中の源頼朝に挙兵の決意を固めさせたのも、真言宗高尾神護寺(じんごじ)の僧・文覚上人(もんがくじょうにん)でした。
また陰で挙兵をたすけたのも覚淵(かくえん)という真言の僧といわれます。このため源家及び御家人衆と真言僧徒の間に深い関係が生まれました。そして関東に下向(げこう)する真言僧が相次ぎ、その法流が広まっていきました。
長禄元年(1497)、扇谷(おおぎがやつ)上杉氏の執事だった太田道灌(おおたどうかん)が、江戸に江戸城を、川越に河越城を、岩槻に岩付城を築きました。太田道灌は統率力に優れた軍略家で、国人衆(くにうどしゅう)の信望も厚く、次第に勢力を持つようになりました。市川国府台に出城を築き、酒井根原(さかいねはら)(現・柏市)において千葉孝胤(ちばたかたね)の軍をうち破ったのもこの軍略家でした。
この太田道灌の活躍と時を同じくして真言宗の勢力がさらに高まりました。関東各地に多くの真言寺院が開創され、中興されたのもこの時期です。僧・深慶によって日暮村に徳蔵院が開創されたのも、太田道灌の関東進出と無関係ではなかったでしょう。