真言宗豊山派日暮山医王寺徳藏院のサイト
これらの僧たちは、京都への往復のみちすがら、下総の寺々の門をたたき、路次の宿所としていたのです。
当時の記録をみますと、松戸小金領内では、清滝寺、長福寺、東福寺、大勝院、西円寺(現・西栄寺)の五ヶ寺が醍醐寺三宝院と密接な関係をもっていたことがわかります。
もう少し範囲をひろげてみれば、葛飾区金町の金蓮院、金光明寺(国分寺)もその範疇に入っていました。
しかし根木内城は規模が小さかったので、七十年後の享禄三年(1530)には北小金の大谷口に大規模な小金城の築城に着手しました。
小金城が完成したのは、それから七年後の天文六年(1537)です。高城氏の祈願寺である大勝院も、根木内より小金城の鬼門(北東)の地に移りました。菩提寺である広徳寺も栗ヶ沢から城外近く中金杉の地に移っています。
また、高城氏は、有力な家臣団の多くを、千駄堀や金ヶ作、日暮などの村々に分散して住まわせ、平時は農耕に従事させていました。
日暮十郎左護門、日暮又左右衛門、日暮大内蔵、日暮理右護門という家臣の名がみられますが、これらの武士たちは日暮村に住む豪族だったのでしょう。
つまり高城氏の勢力は、地元松戸市域はもとより、現在の市川市域にまで広範囲に及んでいたのです。むろん徳蔵院も高城氏の膝元近くにあって、砦を擬した一外城として小金城と連携を保っていたことは間違いありません。
ちょうどこの時期、太田道灌が上杉定正によって斬殺されました。正確には文明十八年(1486)のことですが、同時に政治的混乱が増大しました。国人衆が扇谷上杉氏からさらに離れ、また一方で古河公方や堀越公方も内紛を起こしたためです。
その北条早雲が小田原城に入ったのは、明応四年(1495)でした。
以来後北条氏は、およそ百年にわたって関東に覇をとなえつづけてゆくことになります。江戸城もその支配下におさまりました。しかし世は実力のある者が親兄弟、主君を倒してその地位を奪う下克上の時代を現出させたのです。
北条早雲の跡を継いだのが、二代・北条氏綱でした。この氏綱も戦国時代の武将らしく、関東から武州、房総への勢力の拡大化をはかりました。
天文六年(1537)、氏綱は嫡子・北条氏康とともに兵の主力を武蔵にむけ、まず上杉朝定の軍を三木の合戦で破り、松山城(埼玉県吉身町)に追い込みました。
つづく天文七年(1538)二月には下総の葛西城(東京都葛飾区青戸)を攻め落とし、岩付城(埼玉県岩槻市)へも攻撃を仕掛けています。のちに後北条氏三代を継ぐ氏康は、このときが初陣でした。
この後北条軍には、上総の領主・千葉昌胤が率いる軍勢が加担しています。千葉昌胤は氏康に、古河公方の残党ともいうべき足利義明を討つことをすすめました。
足利義明はこの二十余年前に原氏の小弓城(千葉氏南生実)を攻略し、そこを居城として小弓公方を称しています。
この足利義明もまた、関東制覇を虎視眈々とねらっていました。両軍の激突はまさに必至でした。
この年の十月二日、足利義明はその子・義純、弟・基頼とともに、国府台とそれにつづく相模台に出陣してきました。
この軍に、安房の里見義堯や土気の酒井定治、東金の酒井敏房の軍が加勢しています。義明らの軍は三日三晩を費やして国府台に陣を築きました。
一方、十月六日夜半に江戸城を発し、七日朝には松戸堤に達した氏綱の軍は、右翼、本陣、左翼と分かれて江戸川を渡り切り、包囲作戦に出ました。電光石火の早技です。
そこへ義明の軍が斬り込んできました。後北条軍は弓軍で応戦しました。とどのつまり義明の軍は壊滅的な打撃をうけ、義明も胸を射抜かれて戦死してしまいます。
子の義純、弟の基頼も討死しました。そして両軍合わせて千人以上もの戦死者がでています。この戦いが「相模台の合戦」でした。「第一次国府台合戦」ともいわれています。
一方の里見の軍は、大多喜城の正木時茂、勝浦城の正木時忠らの支援をうけ、八千余の軍兵が国府台から矢切台にかけての台地上に陣を布きました。
両軍はいまの矢切の渡しから西連寺付近で激突しました。緒戦は里見の軍の勝ちでした。
しかしその夜、後北条軍は二手に分かれてすっかり油断をしている国府台の本陣の里見軍を急襲しました。
結局、後北条軍が勝利をおさめています。この合戦のときも、両軍合わせて九千余名の戦死者がでました。この戦いが「国府台の合戦」でした。
「第二次国府台合戦」ともいわれています。
高城の兵たちはその戦死者の遺骸を鏃などと共に日暮村に葬りました。その場所が藤塚稲荷のある場所(八柱駅北口)だといわれています。
藤塚稲荷は現在徳蔵院に寄付され、八柱駅北口には小さな祠が残っています。