真言宗豊山派日暮山医王寺徳藏院のサイト
神社の背後の山が寺山と呼びならわされているところから、神仏混淆の時代には徳蔵院と特別な関わりがあったことが容易に推測されます。
高城氏は没落と同時に、かっては小金領と二合半領(埼玉県三郷市)、相模国小菌(神奈川県綾瀬市)、飯島(横浜市戸塚区)などにあった所領地を失いました。
一方この間に小田原の後北条氏も、氏綱から氏康に、氏康から四代・氏政に代わりました。
結局、小田原城は落城してしまいます。氏政と弟の氏照は自刃して果てました。氏政の子であり五代の氏直ひとりが、家康の娘・督姫を娶っていた因縁から、かろうじて助命されたにすぎません。ここに後北条氏もあえなく滅亡しました。
そして家康が関東八州の新領主として、江戸に入部したのです。
高城氏の旧家臣たちは、このとき帰農し郷士となったと伝えられています。
翌天正十九年(1591)、家康は関東一円の古社旧寺に対して、朱印状をくだしました。
関ヶ原の合戦は、俗に「天下分け目の戦い」といい、家康軍が大勝しました。天下の大勢はここに決したわけです。
この以前、家康は第五子の武田信吉に、小金領百四十九ヶ村、三万石余の支配をまかせました。信吉は当時たったの八歳です。
当然、実権は母の於都摩の方や兄たちの秋山昌秀、山本正成ら旗本が握りました。
しかし於都摩の方が早逝すると信吉は佐倉に去り、小金領は兄たち旗本の采地となりました。
それも長くつづかず、やがて天領(幕府領)になっています。日暮村一帯も同様でした。
つづく寛永八年(1631)には、幕府は諸本山に命じて末寺帳を提出させました。しかしそれが不徹底だったのでしょう。
二年後の寛永十年(1633)にも、再び末寺帳の提出を命じています。
これらによって幕府が宗教統制にいかに苦慮していたかがわかります。
寛永十七年(1640)になると、幕府はキリスト教を禁圧するために宗門改役を置き、宗門改人別帳を作成することにしました。
『徳蔵院関係文章』(国分寺所蔵)
徳蔵院においても十九夜講が盛んに営まれ、延宝七年(1679)四月と貞享二年(1685)二月には境内に舟型浮彫如意輪観音の十九夜塔がつぎつぎと造立されています。
昭和五十年頃まで徳蔵院を中心として残っていた「八日講」は、薬師の縁日である八日に講がもたれ、信仰されてきたものです。
その折りに使用された鉦や太鼓は、現在も徳蔵院に大切に保管されています。
さらに元禄五年(1692)には、潰寺の再興や草庵を寺院とすることも禁止しました。寺院の建立を極端に制限しようとしたためです。
当山は古跡寺院でしたが、いくたびも火災によって焼失していた徳蔵院は、一体どのように対処していたのでしょうか?
たぶん徳蔵院では、仮に無住の時期があっても、古寺としての来歴や檀信徒の多大な志向によって、法灯が守りつづけられていたのでしょう。
徳蔵院に十九夜講中によって手洗石が寄進されたのも、元禄十四年(1701)十一月のことです。
天海僧正の出自については定かでないところがあり、もしかするとこれだけの人は家康が「山崎の合戦」でやぶれた明智光秀を匿っていたのではないかといわれています。
この頃、幕府の財政も極度に悪化しています。それがために幕府は、寺院や一般市民に対しても、厳しく冗費の節約を要求しました。
享保九年(1724)には毎年諸寺院から提出させていた宗門改人別帳を六年ごとに作成することにし、また高さ三尺(約90センチ)以上の仏像の造立を制限する挙にでました。
このような圧迫を加えるかたわらで幕府は、地方の実情の調査に余念がありませんでした。そのひとつが将軍の鹿狩り、鷹狩りと称す野外の行事でした。
これらの行事は決して単なる遊興ではなく、農耕害獣の捕殺や新田開発の促進、古社寺への監視など、さまざまな重要目的をひめていました。
遊興にみせかけた視察がこれです。とくに吉宗は、たびたび大がかりな鹿狩りを催しました。
この牧も享保の改革にあわせて、小金牧のうちの庄内牧が中野牧、下野牧に改められました。
つまり新田開発をともなう大拡張が加えられたのです。
そのとき開拓されたのが、現在の八柱霊園の地にあたる田中新田や陸上自衛隊松戸駐屯地付近の串崎新田でした。
徳蔵院のすぐ南の地域といっていいでしょう。
この二回の野遊に動員された百姓勢子は、下総と武蔵二ヶ国五郡四百八十三ヶ村から、三万人を超えたといわれます。
そして獲物は、鹿千三百余頭、猪十七頭、狼二頭などがありました。
徳蔵院のごく近くでこれだけ大きな行事が行われたのですから、その賑わいは筆舌に尽くせぬものがあったでしょう。徳蔵院では秀応法印の時代のことです。
享保十五年(1730)八月二十九日、その秀応法印が入寂しました。法印は徳蔵院の境内に金比羅宮を勧請したという言い伝えがありますが、建物そのものは太平洋戦争中の爆撃で破壊され、跡かたもなくなったということです。
江戸府内外に起こった事柄を年表体に著した史籍「武江年表」によれば、真言宗の諸寺院はこぞって盛大な法筵を設けたと伝えています。
江戸城を中心に八十八の札所をめぐる巡礼路です。その頃の江戸の人びとが、弘法大師ゆかりの四国霊場の巡拝をするのはきわめて困難であったため、江戸にそれに代わるべきものを設けたのがその始まりのようです。
四国は全長千四百キロ、江戸は約百八十八キロの道のり、本家四国八十八ケ所のミニチュア版が江戸時代に作られていました。
先達とよばれる人に伴われて、大師講の手ぬぐい、輪袈裟などをかけ、手甲脚絆姿の人びとは、鈴を鳴らし「南無大師遍照金剛」と唱え、堂前ではご詠歌を唱えました。
交通の便の不自由な昔、一夜毎に帰宅すれば六、七日はかかったことと思われますが、これは当時の人びとの数少ないレクリエーションのひとつだったといえましょう。
その後、全国各地に八十八ヶ所巡拝路が設けられ、一時的に参詣が中断されたこともありましたが、現在の盛況に至っています。
この札所の構成は真言宗寺院に限ることなく他宗にも及んでいるのが特徴です。
これは限られた地域内では八十八ヶ所すべてをおぎなうことがむずかしかったからといえるでしょう。
徳蔵院は第四十七番札所になっています。
翌文化九年(1812)十一月四日、関東地方に大きな地震が発生しました。
とくに神奈川地方での被害が甚大でしたが、下総でも少なからぬ余波をこうむりました。
つづく文政年中(1818~29)にも天変地異の現象が頻発して、寺院も庶民も困窮を強いられました。この異常現象は天保三年(1832)から始まる天保の大飢饉にまでつながってゆきます。
徳蔵院では、嘉永五年(1852)十一月二十八日の明け方に、燈明の火から出火するという出来事がありました。
栄清法印の時代のことです。しかしつぎの浄空法印が村役人をうごかし、かれた古木をつかって再建にとりかかっています。
徳蔵院が庶民の子弟に読み書きを教える寺小屋であったのも、この時期のことかと思われます。
そこへ安政の大地震が起こりました。
この地震は、安政二年(1855)十月二日に発生しています。関東一円は揺れに揺れつづけました。
当然、おおくの寺社が壊滅的な打撃をうけました。せっかく再建されたばかりの徳蔵院も、例外ではありませんでした。
この年の三月、明治新政府は神仏分離令を発令しました。
とたん全国津々浦々にまで廃仏毀釈運動がひろまり、多くの寺院が廃寺もしくは無住寺となる運命に見舞われました。
多くの仏像、仏具も破壊されています。
徳蔵院も白髭神社の別当職を解かれ、除地だった境内地はすべて官有地として没収されました。
徳蔵院では、大純法印につづく永豊法印が住職の時期でした。