徳藏院

真言宗豊山派日暮山医王寺徳藏院のサイト

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ガス塔

■松戸市誕生

 明治二年(1869)一月、下総国は葛飾県に改称されました。
続く明治四年(1871)十一月には、葛飾県から印旛県に改められています。
そして明治六年(1873)六月には、千葉県という呼称に定まりました。日暮村と近郊の村々が合併し高木村となるのは、十六年後の明治二十二年(1889)のことで、松戸市に繰り入れられるのは昭和十八年(1943)のことでした。

 明治六年(1873)、明治新政府はオランダ人土木技師・リンドウを招聘して、江戸川松戸地先の治水工事を行いました。
水運発展のためにです。

 そして明治十年(1877)には江戸川経由で利根川、渡良瀬川へゆく外輸貨客船「津運丸」が就航しています。
松戸地域は飛躍的な発展をとげました。

帆船

徳川家松戸邸(戸定館)

 明治十七年(1884年)最後の水戸藩主・徳川昭武は松戸の戸定の地に自分の隠居所として水戸徳川家別邸を構えました。
戸定邸とよばれるこの邸宅は、西に江戸川の流れ、遠くに冨士を望む見晴らしのよい丘の台地の上にあり、それをとり囲む和洋折衷の庭園が広がっています。

 この屋敷の建築様式は、江戸時代における大名別邸、その中でも江戸の市街地の周辺に設けられた大名の下屋敷を今に伝えており、明治期の旧大名家の和洋の邸宅としては全国的にも数少ない貴重なものです。
最高級の杉の柾目材がふんだんに使われ、装飾を廃し、質実剛健の水戸徳川家の遺風が感じられる戸定邸です。

 戸定邸には、徳川慶喜を初めとする徳川一門の人々、東宮時代の大正天皇などが訪れるなど、華族の交流の場としても使われました。

 昭武の日記によると、彼は、明治八年(1875)正月、狩猟のため松戸に訪れています。案内人をたてていることから見て、この時の昭武はそれほど松戸の地理に詳しくなかったものと考えられます。
以後彼は、頻繁に松戸を訪れるようになりました。

 明治十六年(1883)、水戸徳川家の当主の座を甥に譲り、隠居を決意した昭武は、松戸の戸定の地に邸宅の建設を始めます。
翌明治十七年(1884)に完成した現在の戸定邸です。

 戸定邸建設後も、昭武は明治天皇のそば近くに使える麝香間伺候という公職についていたため、定期的に皇居へ行かなければなりませんでした。
その時は都内の水戸徳川家本邸を使用し、アウトドアライフを楽しむときには松戸の戸定邸を使っていたのです。

■昭武の残した写真による松戸の原風景

 多彩な趣味の持ち主であった昭武は、明治三十六年(1903)から本格的に写真撮影に取り組むようになります。
撮影枚数は、およそ千五百枚以上にも及びました。まだ技術的にも撮影が難しかった当時、昭武が小さな印画紙に記録してくれたのは、豊かな自然と巧みに共生する人々の姿であり、生命の躍動にあふれる子供たちの姿でした。

 それは、私たちが忘れかけている松戸の原風景といっていいでしょう。詳細な文字による撮影記録と共に、これらは忘れがたい松戸の記憶となったのです。

■弘法大師千五十年御遠忌

明治十八年(1885)三月二十一日、弘法大師千五十年御遠忌をむかえました。
徳蔵院でも記念御遠忌塔を造立しています。永豊法印の代のことです。

■徳蔵院境内に日暮小学校が開設

明治二十五年(1892)十月十五日、徳蔵院境内に日暮小学校が開設されました。

 これは八年後の明治三十三年(1900)に高木尋常小学校が創立したのちも、第四教場として使用され、明治末年に高木小学校が現在地に新築されるまで続けられていました。

高味信海大僧正

徳蔵院中興の祖・信海大僧正入山

 大正八年(1919)、現住職の父親、信海大僧正が長いこと無住であった徳蔵院に入山したのは二十一歳のときでした。
世話人の伊兵衛さんが迎えにきてくださいましたが、寺にはローソク立てもなく、輪切りの大根に釘をさして代用しなければならないような有様であったようです。

 東京の根岸で生まれ、四谷東福院の住職である叔父高味良真のもとで修行をしておりました信海僧正は、絵を描くことが大好きで日本画を夢中で描き続けて、修行に身が入らず和尚さんにおこられたといっていました。
ある日、和尚さんが、松戸に無住の寺で徳蔵院という寺があり、ここを再興してくれないかという話をしました。
信海僧正は松戸に行ったらゆっくりと絵が描けると思い、一大発願をし、徳蔵院に入山してまいりました
。そしてそれに一生を貫き通しました。

 大正十二年(1923)九月一日、関東大震災が発生、当山は、罹災の記述はありませんでしたが、昭和十六年(1941)十二月、太平洋戦争が勃発すると、全国的に暗雲がたれこめました。その余波はすぐに松戸地域にも及び、この方面の諸寺院では、武器製造のために、梵鐘や銅像を軍に供出しなければなりませんでした。

徳蔵院鐘楼堂

 現在、徳蔵院の境内にあります鐘楼堂は、昭和六十三年(1988)秋に、信海大僧正三回忌に当り、現住職の良信僧正が建立したものです。

 昭和二十年(1945)二月二十五日午前零時五十分、松戸地域は空襲をうけ、徳蔵院では本堂・庫裡・金比羅堂・墓地の一部が大破しました。
その混乱の時期に法灯を高く掲げたのが、信海僧正でした。

 檀信徒の心の寄る辺としての寺容を整えるのに努力をし、昭和三十三年(1958)、茅葺きだった本堂の屋根を瓦葺きに替え、庫裡を修復、昭和五十四年(1972)には客殿を建立し、四季折々の草花が咲き乱れる境内は、松戸にはめずらしい山寺の趣をもった徳蔵院の寺観が、完全に出現したのです。
まさに信海僧正は、現代における徳蔵院中興の祖と称して過言ではないでしょう。

 平成十五年(2003)は、信海大僧正の跡を継ぐ良信僧正が、徳蔵院新本堂建立に一大発願をいたしております。

■あとがき

 この徳蔵院の歴史は、平成四年(1992)、興教大師(覚鑁上人)八百五十年御遠忌記念事業の一環として、また先住・信海大僧正七回忌を機として、当山「徳蔵院誌」を編纂・刊行したものをもとにまとめてみました
。信海大僧正は本寺である市川国分寺にいくたびも赴き、徳蔵院関係の古文書を書き写しては当山の歴史を明らかにしたいと努めておりました。この寺誌は、その古文書類を根本資料として編纂されました。

 信海大僧正は日本画と写真が趣味で、白黒の古い写真は信海大僧正が友達の写真家と撮影したものです。
昭和初期の徳蔵院と松戸のようすがわかる貴重なものとなりました。

日暮山医王寺徳蔵院住職 高味良信

■主な参考文献

『武江年表』『和名抄』『延喜式』『八木原文書』『姓氏家系文書』『江戸幕府寺院本末帳集成』『下総旧事考』『国分寺文書』(市川国分寺所蔵文書)『近世下総牧の研究』(松下邦夫著)『松戸旧村支配者と名主』(上野顕義著)『松戸市石造文化財所在調査概報』(1、2、3)『松戸市史』『高木のむかし』『郷土千葉の歴史』『市川市史』『房総通史』『大名総覧』『新・日本大名100選』『松戸に住んだ幻の将軍 徳川昭武』

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