真言宗豊山派日暮山医王寺徳藏院のサイト
徳蔵院の御本尊は、子育観音として知られている慈母観音です。
左脚を下ろした半跏像で左手に幼子を抱き、右手には未開敷の蓮華を持っています。
一切修生を観察し、衆生が救いを求める声(音)をきくと自在にこれを救い、また一切諸法を無碍自在に観察できるということで、衆生に現世利益の救済を施すといわれています。
衆生の願いをきくところから観世音といい、衆生に何事にも畏れぬ信念と信仰を与えるところから、施無畏者とも呼ばれます。
観音はすべての衆生の救済に応ずるように、三十三にその姿を変えて現れるといい、これを三十三応化身といいます。
ふつう観音という場合には、聖観音をさしていいます。十一面、千手、如意輪などの変化観音があらわれてのち、変化しない本然の観音そのものを指す名称となったものです。
聖観音は髪を宝髻に結い、弥陀の化仏を置いた宝冠をいただき、ふつうは上半身は裸体で、左肩から右脇にかけて上帛をまとい、長い天衣をかけ、下半身には裳(正しくは裙)をつけています。胸飾・臂釧・腕釧・瓔珞などで身をかざっています。
左手には未開敷または開花の蓮華を持ち、右手は与願印を結ぶか蓮華に軽く添える形が一般的です。
蓮華は慈悲の象徴で、未開敷は衆生の本来持っている仏性が開顕して成仏したことをあらわしています。
【薬師如来】
【如来】
【阿弥陀如来】
【菩薩】
【如意観世音】(十九夜待供養塔)
【地蔵菩薩】
【子育地蔵】
【六地蔵】
【両大使】
【弘法大師】
【興教大師】
古くは、施無畏印(衆生の畏れを去らせる)与願印(衆生の願望するものを与える)を結ぶ形でしたが、十二の大願のうち第七願が「除病安楽」(医薬を得ることができない人たちの救済)であったため、この点が強調されて、のちに左手に薬壺をもち、右手は施無畏印を結ぶ像が多く造られるようになりました。
徳蔵院の薬師如来は立像で、位牌堂に安置されています。昭和四十五年の修理の折りに金箔が施され、袈裟も着けられました。
本寺・国分寺に残されている資料によると徳蔵院の本尊は薬師如来でしたが、嘉永五年(1852)の出火の際に焼失し、明治維新以降に本尊を阿弥陀如来とし、のちに現在の観音菩薩とした旨が記されています。
現存する薬師如来像がいつ頃の作かは不明ですが、徳蔵院は薬師の寺として信仰されてきました。
昭和五十年頃まで徳蔵院を中心として残っていた「八日講」は、薬師の縁日である八日に講がもたれ、信仰されてきたものです。
その折りに使用された鉦や太鼓は、現在も徳蔵院に大切に保管されています。
一般に如来の特徴は、頭部の肉髻・螺髪(らはつ:頭部が右に旋屈して螺状となっている)と、身体に衲衣以外のものをつけていないことであらわされています。
如来像は、釈尊の出家成道後の姿(出家の相)がその表現の基本となっています。
また、菩薩の姿は出家前の釈尊・悉達多太子(しったるたいし)の姿(在家の相)です。出家の前と後とでは、頭髪や衣の形は異なっているわけです。
『阿弥陀経』に、「阿弥陀如来の光明は無量であって十万の国土を照らす」「阿弥陀如来の浄土に生まれるものは寿命無量である」とあることから出たといわれています。
『無量寿経』によると、阿弥陀如来も釈迦と同じくインドの王族の太子で、出家ののち法蔵菩薩となりました。そのとき四十八の大願をたて、その大願を成就して阿弥陀如来となり、西方十万億土の極楽浄土の教主となり、衆生のために説法をしているといいます。
四十八の大願のうち第十八願の「念仏往生願」はもっとも大切なもので「弥陀の本願」といい、念仏を行う者はかならず往生させるという誓願です。
阿弥陀信仰は、藤原時代(平安時代中期)に盛んとなりました。それは世が末法にはいったと信ずる人びとが、今もなお西方浄土で教えを説く阿弥陀仏にすがって、極楽に往生したいと望んだからです。
徳蔵院の阿弥陀如来は、明治初年(1868~)永豊法印の代にご本尊として安置された立像です。
また「仏陀となる資格をそなえた者」とか「仏陀となることを予定されている者」とも解され、あまねく衆生を救おうとする仏道修行者をいい、如来の変身といわれています。
仏教の神髄である「慈悲」のうち「悲」を表現しているため、一般に温顔で造像されます。
(●=”土”偏に”垂”と書く)
石仏の場合、広く各地で造像されるのは江戸中期以降のことで、十九夜念仏や二十二夜待ち主尊として親しまれてきました。
徳蔵院の如意輪観音像もいわゆる十九夜塔とよばれるもので、貞享二年(1685)二月に造立されています。
十九夜溝は、大字か小字あるいは組単位でつくられ、その大部分が女人講です。
つまり十九夜の月待講とよばれる婦人達の念仏講がそれです。
毎月十九日の夜、当番の家、あるいは寺院や堂に集まって、多くは如意輪観音の軸を掛け、その前で勤行が行われます。勤行には般若心経、ご詠歌、和讃、真言などがあげられます。
女人講であるところから、安産・育児・婦人の病などの祈願が多かったようです。
勤行のあとは飲食や雑談をして過ごし、月に一度の憩いの場になっていました。
釈迦が入滅したのち、弥勒仏が下生するまでの五十六億七千万年の無仏時代に、この世に出現し、衆生済度(衆生を迷いの苦しみから救うこと)を受け持つ菩薩として、古くから庶民に信仰されてきました。
平安時代中期以降に極楽浄土の信仰が盛んとなり、末法思想が興るにつれて、地蔵は常に六道をめぐって衆生を救い、極楽に行けるように力を貸してくれると信じられました。閻魔王の本地仏のため、死後冥府(地獄)で閻魔王の裁きをうけるときにも助けてくれるといわれ、尊崇を集めたのです。
近世に入ってからは民間信仰と結ばれて広まり、火除・盗難除・病気平癒など庶民のあらゆる願いをかなえてくれる仏さまとして祈願されています。
また、西(賽)の河原で地蔵が子供を庇護するということから、地蔵と子供とは強く結びつき、子育地蔵・子安地蔵として信仰されることも多いようです。
像容は、頭を丸め身に衲衣・袈裟をまとう僧形(声聞形)で、右手に錫杖、左手に宝珠をもつ形が一般的です。
菩薩なので、本来なら宝冠をいただき、瓔珞などを身につける形をとるべきなのですが、これは外現声聞・内秘菩薩の大行願といって、衆生が近づきやすいように、いかめしい菩薩形はとらないという地蔵の大慈悲を示しています。
錫杖と宝珠を持つ一般的な地蔵尊を、祈願や御利益の面から子育(子安)地蔵とよぶ場合と、幼子を抱く地蔵をよぶ場合とがあります。
幼児を両手で抱くもの、右手に錫杖を持ち左手で幼子をだくもの、脚元にまとわりつく幼児がひとりのものや数人のもの、立像、座像、半跏像などさまざまな形で造られる像で、全国あらゆるところで見ることができます。
それだけ多くの人びとに信仰されてきたわけです。
徳蔵院の子育地蔵尊は立像で前住職信海大僧正が建立したものです。
人間は死ぬとこの六道のいずれかに行くといわれ、その六道のそれぞれにあって私たちを導いてくださるといわれます。
六地蔵の石仏の造立は室町時代にはじまり、江戸時代にはさまざまな形でつくられるようになりました。別石六地蔵、舟形浮彫六地蔵、六面帳地蔵、一石六地蔵など種類が多いのが特徴です。
徳蔵院の六地蔵は墓石型浮彫六地蔵で、高さは七十三センチメートル。
造立年月日は不明ですが、台石には「日暮村 金ヶ作 河原塚村 女人講」と刻されています。
それぞれの像容および持物は、柄香炉・合掌・念珠と宝珠・幢幡・天蓋・錫杖と宝珠となっています。
また、書道では三筆のひとりとしても広く知られています。
徳蔵院には、本堂内に安置されている弘法大師像のほか、境内に「弘法大師新四国八十八ヶ所霊場巡拝」第四十七番の石像と修行像が安置されています。
肥前国(佐賀県)藤津庄の人で、藤津庄が仁名寺領であるところから京都仁和寺に入り、天永元年(1110)十六歳で出家しました。東大寺で受戒し、高野山に登り、仁和寺に戻り、三井寺の覚猷、醍醐寺の賢覚から格流の灌頂を受け、諸流を合わせた権威を誇るようになりました。
その後、高野山に大伝法院を建立し、鳥羽上皇の命によって座主となり、金剛峯寺をも兼帯しています。 のち紀州の根来山に円明寺を建てて住していましたが、康治二年(1143)十二月、四十九歳で示寂しました。興教大師の諡号を東山天皇より賜ったのは、元禄三年(1690)のことです。