真言宗豊山派日暮山医王寺徳藏院のサイト
明治六年(1873)、明治新政府はオランダ人土木技師・リンドウを招聘して、江戸川松戸地先の治水工事を行いました。
水運発展のためにです。
そして明治十年(1877)には江戸川経由で利根川、渡良瀬川へゆく外輸貨客船「津運丸」が就航しています。
松戸地域は飛躍的な発展をとげました。
この屋敷の建築様式は、江戸時代における大名別邸、その中でも江戸の市街地の周辺に設けられた大名の下屋敷を今に伝えており、明治期の旧大名家の和洋の邸宅としては全国的にも数少ない貴重なものです。
最高級の杉の柾目材がふんだんに使われ、装飾を廃し、質実剛健の水戸徳川家の遺風が感じられる戸定邸です。
戸定邸には、徳川慶喜を初めとする徳川一門の人々、東宮時代の大正天皇などが訪れるなど、華族の交流の場としても使われました。
昭武の日記によると、彼は、明治八年(1875)正月、狩猟のため松戸に訪れています。案内人をたてていることから見て、この時の昭武はそれほど松戸の地理に詳しくなかったものと考えられます。
以後彼は、頻繁に松戸を訪れるようになりました。
明治十六年(1883)、水戸徳川家の当主の座を甥に譲り、隠居を決意した昭武は、松戸の戸定の地に邸宅の建設を始めます。
翌明治十七年(1884)に完成した現在の戸定邸です。
戸定邸建設後も、昭武は明治天皇のそば近くに使える麝香間伺候という公職についていたため、定期的に皇居へ行かなければなりませんでした。
その時は都内の水戸徳川家本邸を使用し、アウトドアライフを楽しむときには松戸の戸定邸を使っていたのです。
それは、私たちが忘れかけている松戸の原風景といっていいでしょう。詳細な文字による撮影記録と共に、これらは忘れがたい松戸の記憶となったのです。
これは八年後の明治三十三年(1900)に高木尋常小学校が創立したのちも、第四教場として使用され、明治末年に高木小学校が現在地に新築されるまで続けられていました。
東京の根岸で生まれ、四谷東福院の住職である叔父高味良真のもとで修行をしておりました信海僧正は、絵を描くことが大好きで日本画を夢中で描き続けて、修行に身が入らず和尚さんにおこられたといっていました。
ある日、和尚さんが、松戸に無住の寺で徳蔵院という寺があり、ここを再興してくれないかという話をしました。
信海僧正は松戸に行ったらゆっくりと絵が描けると思い、一大発願をし、徳蔵院に入山してまいりました
。そしてそれに一生を貫き通しました。
大正十二年(1923)九月一日、関東大震災が発生、当山は、罹災の記述はありませんでしたが、昭和十六年(1941)十二月、太平洋戦争が勃発すると、全国的に暗雲がたれこめました。その余波はすぐに松戸地域にも及び、この方面の諸寺院では、武器製造のために、梵鐘や銅像を軍に供出しなければなりませんでした。
現在、徳蔵院の境内にあります鐘楼堂は、昭和六十三年(1988)秋に、信海大僧正三回忌に当り、現住職の良信僧正が建立したものです。
昭和二十年(1945)二月二十五日午前零時五十分、松戸地域は空襲をうけ、徳蔵院では本堂・庫裡・金比羅堂・墓地の一部が大破しました。
その混乱の時期に法灯を高く掲げたのが、信海僧正でした。
檀信徒の心の寄る辺としての寺容を整えるのに努力をし、昭和三十三年(1958)、茅葺きだった本堂の屋根を瓦葺きに替え、庫裡を修復、昭和五十四年(1972)には客殿を建立し、四季折々の草花が咲き乱れる境内は、松戸にはめずらしい山寺の趣をもった徳蔵院の寺観が、完全に出現したのです。
まさに信海僧正は、現代における徳蔵院中興の祖と称して過言ではないでしょう。
平成十五年(2003)は、信海大僧正の跡を継ぐ良信僧正が、徳蔵院新本堂建立に一大発願をいたしております。
信海大僧正は日本画と写真が趣味で、白黒の古い写真は信海大僧正が友達の写真家と撮影したものです。
昭和初期の徳蔵院と松戸のようすがわかる貴重なものとなりました。
日暮山医王寺徳蔵院住職 高味良信